所狭しと仕事場に並べられたモチーフたち。これまで私が作ってきた版のしごとでは、風景や記憶をモチーフとしていたので 絵を作るときに具体的なモノはたいして必要なかった。だが、こういう水彩画を描くようになって 随分モノが増えてきた。
水彩画だからといって、モノが無くては描けない訳ではないのだが、色や形を追いかけていく時に自分の中からでてくるものだけでは物足りなくて、何か取っ掛かりになるものが欲しかったのだ。
集まってしまったもの達を見ていると 不思議な形をした木の実や貝殻、光をキラリと反射する透明なガラスや、金属をぐるりと曲げて作った置物。有機的な植物の繊細な色や形と、無機的なものの冷たい質感。「無機的なものと有機的なもの」これらを対比させて版の作品にもよく取り入れるのだが、特に意識せずに そういうものを気に入って集めてしまっていた。
・・・対比。画面の奥行きというものを煩わしく感じ、もっと平坦で、イメージ性よりも物質的なものを強調したかったから、異質な物を対比をさせて並列にして展示するというスタイルを何度かとって来た。しかし、これでは結局、画面を弱くしてしまうのではないだろうか?画面の奥行きを煩わしく思うことが、作品自体の力や深さも削いでしまっているのかもしれない。
人間の意識はフォーカスを絞ることで対象の意味付けをしていくものであり、中心視野の狭い範囲内でしか最高の視力と意識の重み付けが出来ないものだから、2つのモノを並列させてしまうと、見るほうは 自分の頭で全体像を再構成しなくてはならず、今見ているもの に対する意識を拡散させてしまうものらしい。
「白とか黒とかいう音があるのではなくて、一つの響のなかにたくさんの色がある。たくさん、ではなくて、全部かもしれない。その、全部の色を持った一つの響が、時間のうつろい、音の繋がり方、そして聞き手の心によって、いろいろな色に聞こえる、、、、、」こんな有難い話をしてくれた音楽家でもある友人の言葉を、自分なりに噛み砕き、まだまだ全然、消化はしきれていないけれど7月の展示に向けて作品を作っている。
全は一なり、一は全なり、 か・・・
2008.6.9