展覧会を無事終了し、次回へ向けての制作に取り掛かる準備を早速始めている。
版画は大学時代の専攻で、以来20数年銅版画の制作も続けているが、
今回の展示、思ったよりも版画の作品に反応があり、なんだか嬉しかった。
もちろん水彩も当時から描いてはいたが、所謂対象を据えて描くというものではなく、左のようなドローイングだ。
左の作品、実は大学1年か2年のころに版画のエスキースとしてミクストメディアの授業で描いたものだ。
大学時代の私の作品は全て研究室で記録をとるというので預けてしまい、複数刷れる版画以外、私の手元にはほとんど残っていない。
しかし、このドローイングだけは手放せず、あとからこっそり返してもらった。
作品としては荒っぽいし、描き終えてしまった作品に執着するのはどうかとも思うが、これは私の原風景なのだ。
昨日、カルチャーにいらしている方が紫陽花を描いていて、「山紫陽花を見ると、幼かった頃木イチゴをとりに森の中へ入ると
日差しを受けた紫陽花が一面に広がっていてとっても素敵だったの、その光景をいつか、描いてみたくて」と仰っていた。
誰しも、忘れられない記憶の景色があるのではないだろうか。
私の記憶の景色は、湿り気のある土のにおいのする森、その森を抜けると広がる灰色の空と石油の臭い・・・。育った時期が高度経済成長期の真っ只中、川も空気も汚れていた時代だ。
自然の有機的で奥深いものと、人工的で無機質で冷たいもの。相反する二つは自分の中で融合し時を重ねて少しずつ形を変える。
大学時代のエスキースをもとに、いくつかこれをテーマに素材も変えながら展開してきたが、今回DMに使用した作品もその一つだ。
このDMを見た友人が、「童話の挿絵のような、物語の始まりを感じてドキドキした」と言ってくれた。
友人はきっと、そんな物語に出会ってドキドキした経験があったのかもしれない。豊かな感受性の持ち主だと思った。
私の中の風景、しかし、見る人はこの中に別の景色を見つける。
それぞれの経験や、記憶がそこに映し出される。
私は「物語の始まり」と聞いて、好きなシューマンの音楽の「森の入口」という曲を連想した。
・・・あ、そうだ、次は、森の入口から、あの音楽のような絵を作ってみたいな。
なるせ美術座での個展、無事に終えることができました。ご高覧下さった皆様にお礼申し上げます。有難うございました。
2012.6.11
個展、お疲れ様でした。遠方で行けなくて本当に残念です。
あなたの原風景というドローイング、ぜひぜひ観て見たかったです。
それから、DMの作品に対する私の感想をそんなふうに受け止めてくれてありがとう。
少し補足を…。わたしはこの作品に“どこかへ開かれた『門』”を感じました。
自分は門のすぐ内側にいて、門の外側に生えている瑞々しい生命力に満ちた緑の木々が、
門の外へと力強く私を誘っているような、そんな希望に満ちた物語を感じました。
やっぱり改めて今観ても、同じ感想を持ちます。
絵から感じる未知の世界は、わくわくするような冒険に満ちている予感がして
これから勇気を持って何かに立ち向かおうとする少年のような胸の高鳴りを感じます。
季節は初夏で、
さわやかな空気と、色濃い影を作り出す日差し…
その中に自分が立っていて、
今すぐにでも門の内側から思いっきり走り出していきたいような気持ちに駆られました。
でも、わたしにとって、そんな1枚が
また他の人にとっては全く違う意味を持ったりするんでしょうね。
あなたがコメントされているように、経験や記憶を映し出す鏡…
やはり、絵は自分と向き合うものなんですよね。
感じるものは、自分の内世界でもあるのだとすると、
これからも、その鏡を曇らせずに、
もっともっと、深く色々感じていける自分でありたいと思いました。
カルチャーにいらしている方の紫陽花の話、素敵ですね。
あの時、あの風景。
今でも触れられそうに鮮明に覚えている風景というものがありますよね。
私は、子どもの頃、毎夏訪れた、兵庫県西宮市の祖父母の家から
近くの海に向かう道すがらに
ずっと続く、大輪に咲き誇る夾竹桃の並木道でしょうか。
そこを抜けると、急に眼の前に広がるテトラポットの並ぶ海岸。
見渡す地平線。入道雲。あの空と海の輝き。
今はもうすっかり変わってしまい。祖父母も亡くなり、
家も震災で壊れ、二度と見ることの出来ない風景ですが、
あの時の、あの場所へも、
DMの絵の門を出て駆け出していけば、
世界がつながっているような気持がしました。
どこかへ…、どこへでも望む場所へ。門の外は続いている気がします。
あなたの絵は、私にとってそんなイメージを沸かせる力を持っています。
また、私をドキドキさせてください。
シューマンの「森の入口」の様な絵も楽しみにしてます。
コメント、長くなってしまいました。
個展の成功、改めて
おめでとうございます(^-^)